これはある心理カウンセラーのメンタルトレーナーとしての活動記録である。

 

プロローグ

―いじめ予防研修の講演―

2017年6月28日、心理カウンセラーである私は愛知県立刈谷工業高校に研修講師として呼ばれ、いじめ予防研修の講演を行った。

いじめの防止のためには、学校の教職員が自らの問題として切実に受け止め、徹底して取り組むことが求められる。しかし、いじめとは教師にとって見えにくいものであるため、早期発見して解決するという発想だけではなく、いじめが生まれにくい環境を作り、予防するという視点も重要である。そのため、いじめに対する教職員の当事者意識を高めることにつながるように、いじめへの対応のみならず、どのような学校コミュニティを目指すべきなのかについても研修内容に盛り込んだ。

そうした中で、「いじめをしない」という目標は逆効果という話をした。

いじめに限らず、「○○してはいけません」という否定文の目標設定はあまり効果的ではない。これは心理学的な観点から言えば、ウェグナーの皮肉過程理論から説明できる。ウェグナーの「シロクマ実験」と呼ばれる有名な研究では、「シロクマのことだけは絶対に考えないでください」と言われると、余計にシロクマのことを考えてしまうことが証明されている。つまり考えを抑えようと努力すると、結局は、余計にその考えが心に浮かぶ結果を招いてしまう。

また、心理的リアクタンス理論からも理解することができる。これは他者から何かをするように強く命じられると、人は逆にそれをしたくなくなり、他者から何かをしてはいけないと強く命じられると、人は逆にそれをしたくなるという心理現象である。親から「勉強しなさい」と命じられるほど、子どもは勉強したくなくなってしまうという場合が典型例である。

カウンセラーとして、人の行動や考え方や態度の変化を促す仕事に携わってきた経験からも、否定文の目標は効果的ではないということは実感がある。人間の肯定的な側面に注目するポジティブ心理学の視点に立てば、「いじめをしない」という否定文の目標を掲げるよりも、尊重や共感といった人間関係における価値を深く胸に刻むことの方がはるかに重要なのである。

人に共通する基本的な欲求は「肯定されたい気持ち」である。

人は否定されると欲求不満になり、ストレスがたまり、いじめなどの問題を行うことで優越感を得ようとする。逆に、「私は人のために役に立っている」という感覚を抱くことができれば、他者をいじめて存在感を示す必要もない。犯罪心理学者のハーシーの絆理論によれば、社会に対する個人の絆が弱くなったり、失われたりするときに非行は発生する。歪んだ仲間意識ではなく、健全な仲間意識をいかに育んでいくことができるのかを考えていく必要がある。

お互いのことを認め合える学校コミュニティを作り上げるには、まずは教師が生徒のプラスの側面に注目して褒めることが大切である。しかし、それだけでは不十分である。なぜならば、教師が生徒を褒めるという構造では、たくさん褒めてもらえる人とそうでない人との間に上下関係が生まれたり、生徒側に嫉妬などのネガティブな感情が生まれたりするからである。そのように考えていくと何よりも大切なのは、生徒同士の肯定的なコミュニケーションを促進することである。

「いじめを予防するためには、相互承認の学校コミュニティを作り上げていく必要がある」

最後に、このようなメッセージを先生方に伝え、いじめ予防研修の講演を締めくくった。

 

―高校野球のメンタルトレーナーになる―

今回の研修は、私の時習館高校の野球部時代のチームメイトで、現在は刈谷工業高校で体育教師をしている中田先生からの依頼で実現した。中田先生は、2007年に筑波大学大学院を修了後、1998年に春の甲子園選抜大会への出場経験もある豊田西高校野球部で副部長兼Bチーム監督を務め、2012年からは刈谷工業高校野球部の監督になった。

私たちが高校生のとき、中田先生のポジションはピッチャーで、私はキャッチャー。バッテリーで別メニューであったということもあり、部員の中でも一緒に過ごす時間は多かった。二人の憧れは大リーグ史上最高の奪三振王ノーラン・ライアン。投球フォームや配球、マウンド上での気持ちの持ち方など、野球の話をたくさんした。

その延長で、高校卒業後も、野球について議論することは多かったし、豊田西高校や刈谷工業高校の応援にもよく行っていた。そのような中田先生からの依頼だったということもあり、今回の講演については二つ返事で引き受けた。

無事に研修を終えると、中田先生と私は高校近くの喫茶店に行った。

「今回の研修はすごくよかった。野球部のチーム作りにもいろいろと考えさせられた」

講演について社交辞令で褒めてもらえることはよくあることだが、今回の話をここまで当事者意識を持って聴いてくれて、それを野球部のチーム作りに生かしたいという感想が出てくることは想定外であった。もちろん、部活動の運営にも応用できる内容ではあるが、日本の高校野球は旧態依然としたところがあり、今回の講演内容とは最も遠い現場だと思っていたからである。

「『肯定的なコミュニケーション』って本当に大事だと思う。野球部でも、そんなチームが作れたらと思った」

「今の選手を見ていて思うのは、勝つとか負けるとか、そういうレベルではなく、とにかく一生懸命取り組む姿勢を大切にしたいと思っている。一生懸命やれば、結果はついてくるものだと思うし、いかに選手のやる気を引き出すのか試行錯誤している」

中田先生の問題意識は、驚くほど私の最近の関心と一致するものであった。

私は心理カウンセラーとして、さまざまなクライエントへのカウンセリングを行ってきた。虐待や人間関係の問題などの影響から、人間不信になり、自分に対しても自信が持てない人も少なくなかった。そうした中で、①クライエントとの関係性を作ること、②クライエントのやる気を引き出すことの2点を重視して心理的支援を行ってきた。

そこで重要になってくるのが、本人が自覚していない強みの部分に焦点を当てる肯定的なコミュニケーションを追求することである。実際にこれをやろうと思うと、なかなか難しいことではあるが、それが実現すれば、関係性を作りながら、やる気を引き出すことが可能になる。自分自身が現場で培ってきたカウンセリングの考え方と技術を高校野球に応用すれば、選手のやる気を最大化することもできるかもしれない。

「勝てるチームを作るためのノウハウを提供することはできないけど、今よりも一生懸命取り組む姿勢を引き出すことであれば、協力できることはあると思う」

中田先生の考えに共鳴しながら、私は思わずこう話した。気が付けば、喫茶店でこれからの野球部のあり方について、ずいぶんと長い間、議論していた。このいじめ予防研修の講演をきっかけとして、私は高校野球のメンタルトレーナーとなった。

7月は夏の選手権愛知大会がある。それが終わり、3年生が引退し、新チームになったら、メンタルトレーナーとして刈谷工業高校野球部に関わっていくことが決まった。

(第1章-Ⅰに続く)