第1章 奇跡(中盤)

 

Ⅱ メンタルトレーニングの導入

―第1回メンタルトレーニング―

2017年9月4日に第1回メンタルトレーニングを実施することになった。私としては、個々の選手ではなく、チーム全体に働きかけたいと考えていたため、講義とワークを行うことにした。話に集中してもらうために、講義内容は1枚のレジュメにまとめたものを準備した。この日は、夏休み明けの課題テスト最終日。お昼頃に学校が終わり、グラウンドで練習をしてから、学生服に着替えて視聴覚室に集まってもらった。

時間になると、部員35名、マネージャー1名は、静かに座って待っていた。中田先生と私が教室に入ると、選手全員が素早く立ち上がり、大きな声で挨拶。

最初に中田先生からメンタルトレーニング導入の狙いについて説明があった。

「このチームは、『何回バットを振ったのか』『何本のノックを受けたのか』と量をこなして個人の能力を高めるチーム作りではなく、野球に対する考え方や意識などの質を追求することで強いチームを作っていきたい。その一環として、これからメンタルトレーニングを始めることにした」

野球には、「一日1,000スイング」「地獄の1,000本ノック」といった言葉があるように、量をこなし、身体に基本的な型を叩き込むことで上達するという考え方がある。実際に、プロ野球の一流選手の活躍は、こうした激しい練習に裏付けられていることが多い。高校野球の世界でも甲子園に出場するようなチームは、毎日長時間の猛練習をしている。

そういう意味では「練習は嘘をつかない」のである。

しかし、普通の公立高校で、そこまでの練習時間を確保することは難しい。練習設備や予算の差も大きい。量で競ったら、必ず負けるのである。そうであれば、量で足りない分は、質で補うしかない。ヒントは、2017年に公立高校ながら夏の甲子園に出場した彦根東高校。滋賀県屈指の進学校で文武両道が求められる中で、たとえ練習時間が限られていたとしても、集中力を発揮して練習の質を最大限に高めることができれば、強いチームを作ることができることを証明してくれた。一生懸命取り組む姿勢を追求するための方法として、メンタルトレーニングを導入することは、チーム作りの方向性としては間違っていないだろう。

メンタルトレーニングの時間に何をするのかは、中田先生から私に全て任せてもらっていた。事前にレジュメ等は用意したが、実際にどんなことをするのかは、選手の様子を見ながら決めようと思った。ただ単に内容を伝えるのではなく、選手との情緒的な交流やライブ感を大切にしたいと思ったからである。

まずは教壇の上に立ち、全体を見渡した。

選手の顔を見ると、みんな真剣な表情をしていた。

(真面目な態度はうれしいけど、話を聴くには、少し緊張が強いかな)

メンタルトレーニングの場は、自由な発想で話し合うことができる創造的な空間にしていきたい。そんな思いから「リラックスして気楽に聞いてくれればいいよ」と声をかけた。

そして、まずは私の自己紹介から話を始めることにした。

 

―私の高校時代―

私の出身校である時習館は、校名から私立だと思われることもあるが、愛知県豊橋市にある公立高校である。野球部は1899年に創部という歴史を誇り、戦前と戦後を通して3回の甲子園の出場経験がある。私は1997年に入学。OBの間では、「創部100周年に甲子園出場」という機運が高まっていた。実際に、地元の有望な選手が多く集まり、中学校までの実績であれば、甲子園も夢ではないメンバーであった。

中田先生は、豊橋南部中学校時代に夏の県大会で優勝し、東海大会へ出場。春の県大会では完全試合を達成したこともある本格派の右腕。140キロ近いストレートと切れ味の鋭い変化球を低めに集めるピッチングと抜群の打撃センスで1年生からエースで四番だった。1学年先輩には、豊橋工業の監督として2015年に甲子園に出場した林先生がキャプテンを務めていた。林先生は、筑波大学時代に、首都大学リーグで首位打者とベストナインを獲得しているが、その卓越した打撃技術は高校時代から際立っており、まさに最強の三番バッターであった。

1997年の秋は、1年生中心のチームだったが、決勝戦で成章に勝って東三河地区大会を優勝。しかし、県大会では超高校級スラッガー古木克明が四番に座る豊田大谷に敗退(古木は甲子園でも大活躍して横浜ベイスターズに松坂大輔の外れ一位で指名された)。1998年の夏は80回記念大会で、愛知県から2校甲子園に出場することが可能な年であったが、東愛知大会準優勝の大府に敗退。東愛知大会で優勝した古木を擁する豊田大谷は超強力打線を武器に夏の甲子園でベスト4まで進んだ。

中田先生や私が最上級生となった1998年の秋は東三河地区大会で準優勝、1999年の春は豊川、桜丘を倒して3位で県大会に出場した。春の県大会では夏のシード権を獲得できるベスト8進出をかけた春日丘戦で1点差の惜敗。最後の夏の大会では3回戦で1997年の選抜に出場した豊田西にサヨナラ勝ちするなど奮闘したが、甲子園には遠く及ばなかった。

私自身は、中学時代に硬式野球のクラブチームの豊橋スカイラークスに所属。主にクリーンナップを打っていたが、春の全国大会予選の決勝戦の直前に左膝を故障。中学3年生のときは、練習らしい練習はほとんどできなかった。夏の大会も予選で敗退し、目標としていた全国大会には出場できなかった。

高校には推薦で入学。1年生の秋から背番号12でベンチ入りし、控えキャッチャー兼代打として試合に出場していた。しかし、2年生になる直前に左膝の故障を再発。完治することを待たずに騙し騙しで試合に出場していたが、腰や肩も痛め、2年生の新チームになる頃には、身体はボロボロだった。2年生の秋のオール三河大会が終わり、シーズンが終了したので、治療に専念するために病院で検査をしたところ、医師からは選手を断念するように言われた。不完全燃焼の選手生活だった。

しかし、今となってみれば、こうした高校野球生活の全てが私にとってはかけがえのない財産になっている。特に、3年生のときに選手を諦め、マネージャーになったことは貴重な経験であった。2年生の冬は怪我でチームを離れていたが、3年生になり、どんな形でもいいからチームに貢献したいと監督とキャプテンに相談し、ブルペンキャッチャー、ノッカー、スコアラーなどの裏方としてチームを支えた。3年生の最後の夏の大会では、記録員としてベンチ入り。試合に出ることよりも大切なことがあることを学ぶことができた。

 

―チームとは何か―

メンタルトレーニングの自己紹介のとき、主には私にとってのマネージャー体験について話した。なぜ最初にこのことを話題に取り上げようと思ったかというと、刈谷工業高校には、試合に出ている選手とそうでない選手に温度差があるチームではなく、全員がチームの勝利のために一丸になれるチームになってほしいと思ったからである。そんなチームを作ることに少しでも貢献できるように、メンタルトレーナーとして本気で関わっていきたいと思った。

では、「チーム」とは何だろうか?

チームとは、一人ではできない大きなことを成し遂げるために存在するものである。もともとの素質がある選手が集まり、猛練習を重ねる強豪校相手に、野球の実力で勝つことは難しい。しかし、個人の力では劣っても、チームワークがうまく機能すれば、試合に勝つことは可能だし、それが野球の醍醐味でもある。仮に刈谷工業高校の選手が、2017年の夏に愛知県代表として甲子園に出場した中京大中京に入部してチーム内で競争しても、レギュラーを獲得することは至難の業だろう。しかし、それほど個人の力に差があったとしても、最強のチームワークの集団を作ることができれば、トーナメントでの一発勝負の試合で勝つことだって不可能ではない。

「チームとは何か」をより深く理解していくためには、「グループ」との違いを明らかにする必要がある。確かに「野球チーム」という言葉はあるが、「野球グループ」とはあまり呼ばない。このように「チーム」という言葉には、単なる集団を越えた「何らかの目的を実現するために結成されたもの」というニュアンスがある。また、「チームワークがよい」というときには、何らかの目的に対して1+1=2以上に機能するという意味がある。こうしたことからも、チームは「目的達成を前提としている」と言えるだろう。

それに対してグループとは、例えば、「仲良しグループ」と言うように、必ずしも目的の達成を目指しているわけではない。つまり、チームとは、目的達成のために作られるものである以上、「目的」や「理念」を明確化することが重要となる。

そこで大切なのがビジョンである。

ビジョンとは、チームが目指すべき将来像をスケッチした「下書き」のことである。下書きがあれば、それぞれが何をすべきか自分で考えて行動ができるようになる。そのため、第1回メンタルトレーニングのワークでは、チームで目的を共有し、ビジョンを描くことに取り組むことにした。

(第1章-Ⅲに続く)