第7章 部分と全体
Ⅱ One for all, all for one
―「部分」に「全て」が織り込まれる―
9月7日に秋季愛知県大会1回戦が行われ、刈谷工業は、杏和高校に4対7で敗れた。
自分たちの100%の力を出すことができず、悔いの残る敗戦となった。
これで春の選抜甲子園出場はもちろん、刈谷工業が目標としていた愛知県大会ベスト8進出も果たすことはできなくなった。
しかし、チーム作りがうまくいっていないかというと決してそうではない。
練習試合ではあるが、9月16日に甲子園常連校の近江高校、そして9月30日には中京大中京のBチーム(二軍)に勝利するなど、自分たちの力を存分に発揮することができれば、強豪校が相手でも十分に戦うことができるという手応えをつかむことができた。
そうした中で、10月11日にメンタルトレーニングを行った。
私のメンタルトレーニングでは、基本的には同じことの繰り返しである。
前回のメンタルトレーニングでは、チームの理念を共有することが目的であったが、その際に、「部分と全体」というテーマでの講義を行っている。
「部分と全体」という関係について、全体を構成する一つの要素が部分であるが、その部分の中に全体が織り込まれていると捉えるのが、私が拠り所としているホロニカル・アプローチの立場である。
つまり、一人の選手のある場面での姿勢にチーム全体の理念が表れているということである。
一事が万事。
例えば、攻守交代で守備につくときにベンチから全力で走って向かうことは、一つの出来事に過ぎないが、こうした何気ないことからチーム全体の力を推し量ることができる。
物事の本質を捉えるとき、実は野球のダイヤモンド内の90度だけを見るのではなく、残りの270度のあり方にチームの特徴が象徴的に集約される瞬間がある。
監督がいる前で、与えられた練習を一生懸命することは、それほど難しいことではない。それよりも自主練習をどのように行っているのかを見れば、チームの理念が浸透しているのか見極めることができるだろう。
それは一見すると試合の勝敗とは関係のない一つの「部分」に過ぎないかもしれない。しかし、考えようによっては、その「部分」にチームの全てがある。
野球のダイヤモンド外の270度で、いかに生活するのかによって、本番の大事な場面のプレーが決まるといっても過言ではない。
個の力で劣る刈谷工業が強豪校に勝つためには、チームワークやメンタルで勝る必要があるため、野球への取り組む姿勢に関連した細かなところから徹底する必要があると思う。
―全力疾走の意味―
2019年9月14日(日本時間15日)、現役を引退したシアトルマリナーズのイチロー選手が引退セレモニーでファンに英語でスピーチを行った。
イチローは、球史に残る特別な選手である。小さな身体にもかかわらずメジャーリーグで大活躍できたのは、技術とメンタルが超一流であったからである。
そのイチローの言葉からは、いつも学ばせてもらっているが、今回は、以下のような言葉が印象に残った。
Every day you need to go about your business with the same passion. That is the greatest gift you can give to your performance and to the fans who come to enjoy this special game.(毎日、同じ情熱を持って、仕事に臨んでいかなければなりません。それが、自身のパフォーマンスに与える、そして、この特別な試合を楽しんでいるファンに与える、最高のギフトとなります)
刈谷工業のメンタルトレーニングでは、「部分と全体」というテーマの文脈で、一塁への全力疾走の大切さを伝え続けているが、これは相手のミスを誘うためではない。
もし相手のミスを誘うことを目的に全力疾走した場合、相手がエラーせずにアウトになるたびに、その試みは失敗したことになり、ネガティブフィードバックを自分自身にかけることになる。そうなると全力疾走という行動へのモチベーションは下がっていき、全力疾走という行為そのものに余計なエネルギーが必要になってしまう。
私が全力疾走を推奨する理由は、最高のメンタルの状態でプレーするためである。
「自分たちの野球をやりきる」ということを目的に置き、全力疾走をするたびにポジティブフィードバックをしていくことで自分自身とチーム全体のモチベーションがどんどんあがっていく。刈谷工業高校野球部では、たとえ凡打であっても選手が全力疾走をすればベンチではハイタッチで出迎え、ポジティブフィードバックをお互いにかけあう。
ちなみにイチローは、過去のインタビューでは、<自分にできることをとことんやってきたという自信を持てたかどうか。そこが重要です。そんな自分がいること、それを継続できたこと、誇りを持てるとしたらそこではないでしょうか>と述べている。
一塁への全力疾走ということも勝敗には関係ない「部分」なのかもしれない。しかし、その「部分」が勝負を分けるような重要な局面での瞬間という「部分」とつながっている。
つまり、凡打で一塁まで走る姿、その「部分」にチーム全体が象徴されていると考えるならば、本当に何気ない一つのプレーに対する捉え方も変わってくると思う。
こうした意識改革によって、本番の120%のパフォーマンスが発揮できるチームを作ることが可能になる。
「全力疾走は誰でもできる」と言うが、では果たしてプロ野球選手でどれぐらいの選手が全力疾走を徹底できているのだろうか。メジャーリーガーのどれぐらいが常に全力疾走しているのだろうか。
実は、全力疾走を続けることは、誰にでもできることではない。プロでもできていない人がいる難しいことである。でも、だからこそチャレンジする価値があるし、そこに果敢に挑んでいくことで、きっと選手たちは人間的にも大きく成長できると思う。
―今、この瞬間しかない―
「部分と全体」の話を突き詰めていくと、ホロニカル・アプローチでは、非連続的な今、この瞬間しかないと考える。これは過去も未来もなく現在しかないという意味ではない。
哲学者・西田幾多郎は、「現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来が対立し、時というものが成立するのである」と述べている。
「今・ここ」の「今」とは、厳密には、過去が含まれ未来が開かれてくる「瞬間」のことであり、部分の中に全体が織り込まれているという立場のホロニカル・アプローチでは、「瞬間」には、過去も未来も全て含まれていると考える。
「今・ここ」の瞬間は、過去によって創られたものから創るものへと生成消滅を繰り返しており、過去によって創られたものの全てを含み、「今・ここ」にある出来事の全てを限定しながら新たな事象を未来に向かって創発し続けている。
「部分と全体」という意味では、ある場面での一瞬の表情、しぐさ、挙動などの「部分」に全てが織り込まれていると考えることができる。
―メンタルトレーニングの一場面―
今回のメンタルトレーニングで少し気になったのは、全体で発言を促したときの選手たちの積極性である。
確かに、周りの様子を見てから発言したいという気持ちは分かるが、こうしたメンタルトレーニングの一場面での一瞬の姿が実際の試合でのプレースタイルとリンクしていると考えることもできる。
実際に、中田監督からも興味深いフィードバックがあったが、まずは様子見をする選手は、初球はとりあえず見送って、2球目以降で勝負しようとする傾向があるとのことである。初球がボールだった場合にはよいが、甘いストライクをあっさりと見逃してしまうと勝負は一気に不利になってしまう。
もちろん慎重さは大切なことであり、チームの和を乱さないように周囲の様子を見ることも必要なことである。しかし、野球の試合のように勝つか負けるかの勝負の世界では、「俺が決めるんだ!」という積極性のある選手がもっと出てきてもいいと思う。
まずはメンタルトレーニングでの発言という場面の姿勢から見直すことで、大事な局面で、甘いボールを見逃さずに初球を一球で仕留める勝負強さを養ってほしい。
One for all, all for one.
「一つは全てのために、全ては一つのために」
メンタルトレーニングを通して、「部分と全体」の関係について、選手たちは感覚的に理解し始めている。こうした感覚を身に付けることで、何気ない毎日の一瞬を大事にすることができるようになるし、日々の練習の質を向上させることができると思う。